水の道 Water path – ダウンズ氏 H.R. Downs 紹介

a pile and a whirl

水の道 Water path

画友 H.R. ダウンズ氏と交わしたカリフォルニアの地下水についてのやりとり

H.R. Downs (ヒュー R. ダウンズ) : カリフォルニア在住.画家,写真家,文筆家.OWL ファウンデーション・リーダー.

OWL ファウンデーションとは,
Open Space: 共有の空気環境の維持
Water Resource Protection: 水資源の保護
Land Use: 土地利用の監視
の頭文字とフクロウの語呂を合わせて,カリフォルニア州ソノマ郡 (Sonoma county, California) に発足した環境法人である.ソノマ郡内で,公的なお墨付きを与えられて行われる乱開発,産業用水の限度を超えた汲み上げ等により,深刻な水不足に見舞われている地域や,やがて同様の危機的状況に陥りかねない地域について,民間レベルでの水資源の保護を訴え,意識の向上を図ろうとするもの.水というものが有限なものであるという認識を持ち,旧態依然とした頑なな地域政策のありかた,住民たちの知らない間に条例化されていく地域地下水脈管理計画の実態に疑問を投げかけ,住民自らが主体的に関わって行こうというもの.

「何が無くとも何とかなるもんさ.だけど,水の代わりになるものだけは絶対に無いんだ.ガソリンや電気が無くても,俺もお前も何とか代わりになるものを見つけてやっていけるはずだ.少なくとも俺たちはな,その時は,そうするべきなんだ.足があるんだから歩けばいいし,自転車にも乗っちゃいけないなんて言うわけじゃないんだ.この俺が馬が大好きだってこともあるが,つい最近まで多くの人間,多くの種族が,本当に長いこと馬と共に暮らし,馬に乗る生活をしていたってことを忘れちゃいけない.お前の家だって,つい最近まで,牛やヤギを飼っていたって言うじゃないか.ずいぶん昔の話だって?まあいいさ.とにかく会いたい友達がいれば,自動車以外のどんな手段を使ってだって,どんなに長い時間をかけてだって,必ずたどり着こうとするだろう.友達なら待っていてくれるさ.考えてもみろよ.こっちが出かけるときにはもう相手は待っていてくれるんだ.いつものようにな.だってそれが友達っていうもんだろ?友情は電気の速さを超えてるんだ.電気が無ければ無かったで,ロウソクを灯して読みかけの本を読み直したり,お前みたいにギターを弾いたっていい.今回の地震で何か必要なものがあるかい?そうだな,お前の場合,ガイガー・カウンターを買うよりは,息子に一生物のギターでも買ってやったほうがいいのかもな.とにかく,生きる気力さえ失わなければ,本当に必要なことは何だってできるはずさ.だけど,水の代わりになるものだけは,今これを失えば,どこを探したって決して見つからないんだ.え?ガソリンだって!ガソリンが無けりゃ逃げたくても逃げられないって.うーん言葉が見つからん.」

ダウンズ氏はこの5~6年,水の大切さについて,常々語ってきた.実は俺は今回の原発騒ぎの前までは,ダウンズ氏の言うことを本気で聞いていなかった.自分のこととして理解できなかったからだ.人の羨むような輝かしい経歴を棒に振り,カリフォルニアで馬に乗って暮らすカウボーイ,ダウンズ氏が,地下水の汲み上げについて,自治体とその認可を受けた産業とを相手に戦い始めたと聞いた時,ドンキホーテのようだと思った.大丈夫なのか?と思った.俺は俺で,この5~6年,地元の御神輿保存会の役員として,村の使いっぱしりのような役を続けてきて,自分を殺しながら,日本の伝統文化のあり方について体を張って学んできたつもりだった.今回の放射能汚染でようやく俺は気付いた.ダウンズ氏は,村のドンキホーテ,日本のドンキホーテとなれと俺たちに教えてくれていたのだ.

「俺たちはみんな好むと好まざるにかかわらず,同じ一つの船に乗り合わせているんだ.これは今はまだ,喩えにしか聞こえないかもしれないが,限られた水ということを考えてみてほしい.干上がった川に船を浮かべて,その上でアメリカ人の俺と日本人のお前とでけんかでも始めてみるかい?そうじゃない.俺たちは敵同士じゃない.俺たちは今みんな,昨日までの人間がしてきた無節操な水の消費,その累積的な結果を問題にすべき時期にさしかかっているんだ.これは本当に深刻な問題なんだよ.

みんな,水 (H²0) は有って当たり前と思っている.人間の体は水でできている.ありとあらゆる生命が水から出来ているものだから,在ってくれるのが当たり前のものだから,水については常にそこにあるものとして,誰も見向きもしない.どこかの誰かが水が無いだの何だの騒いだって,自分と関わりのない所で起こっているうちは,誰も考えたくもない類の話なのさ.

地球という惑星は儚くも、この大切な水という液体を無限に産み出してくれるわけではない.飲用に適する新鮮な水というものは、実は地球という閉じたシステムの限界内で(まさにその環境に頼りながら),自然にリサイクルされるところの,巡るめく,ただの汚い水に過ぎないんだ.今,この世界で手に入れられる水の量というのは,どんなに欲張ったとしても,二万年前に存在したのと全く同じ量の,同じ水でしか有り得ないんだ.自然界は、人間のために新たに水を作ろうとなどはしてくれない.人間が,生命が,その素と出来るのは,今あるだけの限られた量の水だけなんだ.」

OWLファウンデーションは、ソノマ郡 (Sonoma County) の全体計画の一部として水資源についての項目を策定するための会合,それに出席した者の中から,志を同じくする個々人が集まって設立された環境法人である.この団体の監査役を引き受けた8人の主要メンバーには,地質学者や水文学者その他の専門家たちが名を連ねており,情に訴えるだけの団体ではない.

2006年2月に,OWLは,同郡ロナート・パーク市 (Rohnert Park) の2005年度の水源調査報告書に対して,その不備を問う訴訟を起こした.産業用水の汲み上げにより枯渇が懸念される500世帯以上に対して,市政側が科学的な実証を怠ったまま,無根拠に水量は確保されていると結論付け,代替水源の提示もないままである.これは最新のカリフォルニア州法 (SB 221) に定められた地域開発認可のための必要条件を満たしていない,と.

2006年6月の公判で,OWLの訴えを認める判決がなされた.それは,ロナート・パーク市という一地方自治体が,市内行政域のみに限った水源の維持,地下水脈の確保を考えればよいというのではなく,誰もが州規模ないし国家的視野に立って,水資源の保持を考えていかなければいけないという新しい「掟」が実効力をもった瞬間である.

ダウン氏は言う.「BANZAI! あれは歴史的な瞬間だった.あれはカリフォルニア州全体の在るべき未来に影響を及ぼす,本当に力強く貴重な判決だったんだ.」

彼も団体としての OWL も,何でもかんでも闇雲に反対だと言うのではない.「生きていくのに必要な水にさえ手を付けないでいてくれたなら,誰が何をしたって構わないさ.今回も,俺たちの町にカジノはいらないなどと奇麗事を言ってはねのけようとしてるわけじゃないんだ.それによって交通の渋滞が起こることはあるかもしれない.子供たちにも悪影響があるかもしれない.きっと地元の商店街からはすっかり人がいなくなってしまうだろう.結果として悪いことばかり招き入れることになりかねないから,それを心配している人もたくさんいるだろうが,今ここで,俺たちが問題にしているのは,ただ一つのものだけだ.せめて水だけには誰も勝手に手を付けないでくれってことだ.」

補足すると,あらかじめ誰にとっても関心の深い公共の「水」を争点に,市民自らによって深い議論が成されるのであれば,その他の諸々の利害関係は生ずるよりも早く,前もって抑制されるはずだという「しがらみはずし」,中央突破の議会政治の本道を行く姿勢がそこにはある.

興味のある向きは,合衆国における地方自治体の役割の凋落的もしくは解消的変化の現実を,自治体法人化等をキーワードに,このカリフォルニアの水問題を足がかりにちょっと調べてみて欲しい.同じ問題を日本に置き換えた場合,市民の税によって運営される自治体と,原則市民のボランティアによって維持される自治会レベルでの経営の断絶,市民参加社会の過疎的状況は,スケールの違いを伴いつつ,確かにどこにでもあり,上から下へと次々と丸投げされるだけの貧乏くじを誰が引くか,誰に引かせるかは,自分に及ばない限り誰もが目を背けたくなる人間的現実だということも一緒だろう.工業化によって限界村落となることを免れている地域が,日本のそこかしこにある.だが,水や木々,田畑を守ることを忘れ,祭りもまつりごともほったらかしにして,独楽鼠のように知らない世界の誰かさんのためにぐるぐる「しがらみ」を回し続けるだけの地域社会というのは,既に限界村落を越えてしまっているのだ.

今回の例にみると,名目上,カリフォルニア州内での行政簡素化の弊害をあらかじめ補完する目的で州によって立てられたところの,(あるいは州という上部構造を守り抜くのだけが目的なのかもしれないが),各自治体・各自治法人のありかたを法的に規定するいくつかの新しい州法の存在に他ならぬ市民の側が着目し,いかにも正しくそれを法として読み解いた上で,議論の根拠として活用できたことは,注目すべき事実である.

一個人として,また自治体のメンバーとして,恐れず悪びれず主体的に問題を調整しようとしてきたダウンズ氏の姿.彼と行動を共に出来る頼もしい同志たちがその地方に留まっていてくれることなど.そうしたことを見るにつけ,互いへの信頼を言うのは易しいが,要は,己が他にとって信頼に足る人物であらんがために,アメリカの男たちは命を賭けるのだということを,俺は,ミスターH.R. Downs との十年以上の付き合いの中で,じわじわと確実に学んできた.

俺(瀬戸)もこの十数年で二人の子供を育てながら,日本という村の中で,俺の村という小さな地域の中での,小さなおさめ役を引き受けながら,年長者の言葉に耳を傾けながら,痴呆の母を自宅で介護しながら,見栄を捨て,生まれ直したつもりで無様に生きてきた.誰もがみんな懸命に生きている,だが何かがおかしい.互いの首を絞め合うようなまつりごとのあり方.小利口なやつから批判だけして逃げ出す.これは俺の村だけで起こっていることなのか,そう訝りながらも,腹に力を入れてすべてを飲み込んで生きてきた.そうして,今回の原発騒ぎで俺はようやく明らめがついた.案の定,田舎だけではない,日本中のどこでもかしこでも誰も彼もが幼さを引きずったまま無我夢中で生きているだけなのだということを.人間は誰しもどこかで一度だけ,自分の命を天秤に賭けて戦おうと己を奮い立たせない限り,闇雲に生き延びようとする本能的な弱さに引きずられてしまう.その覚悟ひとつ立たないのなら,しゃべればしゃべるほど,気の迷いをさらすだけで,何人が集まろうと何一つ前には進まないのだ.

話を元に戻そう.ダウンズ氏はこれで終わったとは思っていない.

「ロナート・パーク市の現職員も近隣各市町村の現職の官僚たちも、この地方全体にまたがる水資源危機を今すぐ深刻に受け止める気などさらさらない.何とか先延ばしにしようとするだけさ.カリフォルニア州全体を見渡せば,現在160箇所以上で,AB 3030 という比較的新しい州の水資源利用規約に沿うように立案された公共の地下水保守計画が進められていることになっている.しかしこれも建前の話で,これより以前から複雑に絡み合って来てしまっている様々の事情から,地方自治体として本来ひたすらこれを遵守するしかないはずのソノマ郡政委員会が,州のこの規約を敢えて無視して事を進めてきたこれまでの経緯があるのだ.彼らは引き継ぐだけだ.一人一人ではもうどうにもならないのさ.結論として,カリフォルニア州全域の役人と住人,全ての人間が水資源保全計画の重要性を共有できない限り,自然のバランスを取り戻すことはできないだろう.結局,ただ一地域の地下水だけを問題にしていたのでは,誰かが馬鹿を見るだけだからね.全ての水源は見えない所で合流し,また分流し,全ての地下水脈,伏流水.ロシアン・リバー (Russian river) をはじめとする全ての陸上河川とつながっていて,どこからどこまでが誰かのものという人間的な所有の概念には,もともとそぐわないものなんだ.だからこそ,ソノマ郡周辺の全ての井戸の所有者たち,全ての市町村,各地方水道局,それにソノマ郡水道局協会管轄内で水を取り扱う全ての機関,つまりソノマ郡から直接的間接的に飲料水や工業用水の供給を受けている関係各社,水を扱う全ての人が協調して事に当たらなければならないということだ.実際の話,ソノマ郡は郡全体の消費水量のうち,30パーセント前後に及ぶ量を隣接するマリン郡のために供給し続けてきたのだ.その辺に個々の調整だけでは簡単にはいかない事情がある...」

ダウンズ氏は若き日の彼自身を振り返り,今は肉体はいくらか衰えたとしても,心持ちは当時も今も少しも変わらないと語る.

「俺がここ,ソノマ郡に腰を落ち着けようと思ったのは,1984年のことだったかな.妻と保養に訪れたのがきっかけだった.とにかく馬に夢中で,いつまでも乗っていたかったんだ.すっかりここの地の利,気候風土が気に入ってしまい,1990年にはバークレーからここに移り住み,馬たちの世話をして悪戦苦闘を続けるうちに,ここの住人の一人として受け入れられ,ここに骨を埋める覚悟が自ずと出来上がっていったんだ.」

田舎暮らしをしながらも,土着のしがらみを恐れ,地域の活動には一切出てこようとはしない,いわゆる別荘暮らしの芸術家たちとは肝の座り方が違うのだ.彼のカウ・ボーイ仲間からして,一筋縄ではいかない連中ばかりなのだから.何より彼らは馬と牛と見渡す限りの大地が相手なのだ.そこには人と動物,人と人とにまたがって季節ごとに繰り広げられる無数の生と死がある.

若かりし頃,ダウンズ氏は14年以上もの長きにわたって,ユニセフ (UNICEF) の任を負ってアジア各地を訪れた経験がある.見知らぬアジアの地でいつ果てるともない任務を懸命にこなすうち,現地労働者たちから一目置かれ,工場長を務めた経験さえあるそうだ.そうした中,ネパールの奥地 Solu-Khumbu 村に赴き,その谷あいの村での人々との出会い,彼らの生活を詩的に書き留めた一冊,

RHYTHMS OF A HIMALAYAN VILLAGE - H.R. Downs

RHYTHMS OF A HIMALAYAN VILLAGE - H.R. Downs

”Rhythms of A Himalayan Village” ISBN 0062502409

を1980年に出版する.この本は今もネパール・ヒマラヤを訪れるトレッカーたちのバイブルともなっている隠れた名著である.ソル・クンブを訪れてみればよい.あなたは一定の年齢以上の村人たちから尋ねられるはずだ,「ダウンズを知っているか?彼はいつ戻ってくる?」と.そこ,ソル・クンブの地で,彼が運命的に出会った世捨て人のような暮らしをする老画僧 Au Leshi からの仏教の教え,仏画の手解き,山間の寺院で繰り広げられる仮面舞踏,高台へ運ばれて営まれる埋葬の手順,等々.当時のネパール人の暮らしぶりを描いて,はったりのない静かな文体と,彼自身の手による一群のモノクローム写真は,数十年経った今も決して色褪せていない.それどころか,今となっては貴重なネパール近現代史の記録的価値さえ持つようになってきていると言える.というのも,共産主義的合理化とネパール旧来の宗教的態度とが血肉を賭けてせめぎあうような2011年現在の情勢の複雑化を,20世紀末までに一体何人が想像できていたと言えるだろう.まだほんの数十年前のことであるのに,今すでに,そうした「近過去」を記録する手立てがかなりの部分で失われてしまっていることに,ネパールの人も我々もやっと気付き始めたところなのだ.(和訳の出版を検討いただける出版社の方がおられれば,ぜひダウンズ氏または瀬戸までご連絡を).

その後,本国に戻ってからのダウンズ氏は,当時トップクラスの某社会派テレビ・キャスター専属のゴーストライターとして,ほぼ10年というもの,来る日も来る日も変幻自在の文章力を発揮し続けた.プロ・カメラマンとしても十分な実力と成果を上げてきた.その後,第一線からリタイアしたダウンズ氏は,ペングローヴ (Penngrove) の地に腰を落ち着け,いささか早い老後の隠遁生活を満喫する予定だった.馬に乗るのが大好きで,また自ら「根っからの本の虫」と言うくらいの読書好きの彼は,夜には狼の遠吠えの聞こえる小高い丘の上の一軒家で,数頭の馬たちと蔵書と最愛のパートナーと共に,つましくも贅沢に時を過ごすつもりだったのだが...まさにそのとおりの環境を手に入れて10数年.ペングローヴ在住の井戸保有者たちの起こしたロナート・パーク市当局に対する集団訴訟に加わることによって,再び否応無く表舞台に立たされることになったのだ.

「何も考えていないとしか言いようのないひどい事実に,最初はただただ呆れるしかなかった.ロナート・パーク市当局は過去25年間にわたって,それはもう相当な量の水をポンプで汲み上げてしまっており,気がついた時には,地下水位は45メートル以上も降下してしまっていたのだ.ロナート・パーク市そのものは,サンタ・ローザ (Santa Rosa) 平原の上に発展してきた町で,このサンタ・ローザ平原というのは地質学的に見て,大量の砂状質を含む土壌から成り立っており,雨水はそれによって濾過され地下水となる.郡内で最も水の豊かな地域なんだ.それなのに,市当局は行き過ぎた水の汲み上げによって,その豊かさを棒に振ってしまったのだ.その仕事振りは確かにみごとではある。今のうちに誰かが何とかしなきゃと思ったものさ.幸い心強い仲間がいてくれた.」

彼の「隠居生活」は、地元の水資源がいかにかけがえのないものであるかを住民に伝え,その意識向上を目指すOWLファウンデーションの目的のために費やされることになってしまった.ダウンズ氏の十数年間のアジアでの生活体験は,我々に得難い視座,見通しを提供する.「必要な量の水を手に入れらない時,そこでどんなことが起こるのかを目の当たりにしてきた.今にしてみれば,それは貴重な経験だった.あるいはまた、たとえ飲み水が手に入ったとしても,それがひどく汚染されてしまっていたとしたら,その後そこで何が起きるのかを,この目で,この体で体験してきたんだ.それこそ,アジアの不幸の源,撲滅しきれない風土病の温床なのだ.」

2004年連邦内務省発行の調査報告書 (http://www.usbr.gov/WaterSMART/) は,アメリカ西部では2025年までに水源が枯渇するとの警告を発している.ダウンズ氏は希望を捨てていない.「事態がそこまで悪化する前に,カリフォルニア湾岸ノース・ベイ (North Bay) 全体で何らかの対処を始めるはずだ.人間はそこまで馬鹿ではない.いずれにせよ,このまま行けば,遅かれ早かれ壁にぶち当たることになる.世界の様々な場所で目の当たりにしてきた不幸な現実が,この地で繰り返されるのを見たくはないんだ.避けようとすれば避けられることを,手をこまねいていてどうするって話さ.心配はいらない.社会的なしがらみや何や彼やで誰にもどうにもならなくなる前に,事がそれほど大きくなる前に,先手先手を打てればいいのさ.ありがとございます.」

参考:
This Japanese composition is based on H.R. Downs’ casual responses to
some articles about himself and O.W.L. written by Ms. Patricia Lynn Henley and others.

OWL foundation: http://owlfoundation.net/
Ms. Patricia Lynn Henley: http://www.patricialynnhenley.com/
http://www.metroactive.com/bohemian/07.19.06/hr-downs-0629.html
Au Leshey (Au Leshi): http://www.keithdowman.net/art/nyingmaicons/
Cultural Change and Remembering: Recording the life of Au Leshey – Eberhard Berg: http://himalaya.socanth.cam.ac.uk/collections/journals/ebhr/pdf/EBHR_23.pdf
H.R. Downs’ site: http://www.mabian.biz/

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